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半径2m以内の弱視の世界 2023/5

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目の検査をしておけばよかった

 written by 高橋 正視 投稿日時:2023/05/24(水) 04:22

 私は緑内障のため視野が狭くなり視力も落ちたわけですが、この病気は自分ではなかなか気がつかないようです。
ただ私は目が変かなと思ったことが何度かあったのに何の検査もしませんでした。

 最初は眼鏡が見づらくなったので新しいものにしようと眼鏡屋に行ったのですが度数は変わっていないと言われたとき。
長い間使っていた眼鏡が汚れていたのだろうと勝手に解釈してしまいました。
 次はカメラのファインダーや双眼鏡をのぞいたときに真っ黒で何も見えないことがあったこと。
私の効き目は右目で右から視野が大きく欠けていたのでこのときに検査をすれば緑内障が見つかっていたのでしょう。でも私は仕事が忙しくで疲れていたので一時的に見えなくなったと勝手に思ってしまいました。
 その次はマラソンの途中で景色が消えてしまい何も見えなくなったこと。このときも眼科にはいきませんでした。

慌てず騒がず

 written by 高橋 正視 投稿日時:2023/05/22(月) 23:49


 空中に放り出された猫は前後の足を上にしたまま静かにしているのです。
たまに顔だけを私のほうを向いて「またこんなことをして」と迷惑そうな表情をすることがありますが。
最高点に達して落ち始めてもまだ猫は動きません。
そしていよいよ背中がたたみにぶつかりそうになる直前に体をくるっと回して安全に着地するのです。

 私でなくても小学生であれば何か困ったり困難なことに直面すればすぐに慌ててしまうと思います。
そこで猫のようにまず慌てることなく冷静にしていようと。
そして最悪なことにならないようにどうづればよいかを考えることが大事なのだろうと。
小学生のころからそんな風に考えていましたので結果的にですが10年どとに今までの仕事などと違う世界に飛び込んだり投げ出されても慌てず騒がず生きてこられたのでしょう。
70歳台になってから視覚障害者の世界で暮らすことになりましたが同じように冷静に行動しています。
そろそろ最高点に達して失明へと加速しはじめていると思いますが自分ができることは何かナと考えています。

見事に着地する猫

 written by 高橋 正視 投稿日時:2023/05/20(土) 20:53

 家では一匹の猫を飼っていました。
家にいることが多い私が牛乳をあげたりよく遊んでいました。
遊んでもらっていたというほうが近いかも。家が貧しくておもちゃなんかありませんからね。
眼鏡をかけてから背中の蚤を見つけてつぶしてあげましたがゲームで遊んでいるようなものでした。

 猫の背中を両手で持って前足と後ろ足を上に向けた状態で上にほうり投げるという遊びをよくやっていました。
どんなに高く投げても猫は見事に着地するのです。
あるときその猫の行動に「そうか!」と思ったのです。

担任の先生は理解してくれた

 written by 高橋 正視 投稿日時:2023/05/19(金) 15:39

 小学校の4年生だったと思いますが夏休みの宿題に毎日の月の様子を観察するというものがありました。
日付と天候を記入する欄がありその下に円が夏休みの期間中用意されていました。
雨や曇りで月が見えなかったり旅行中は描かなくても良かったと思います。
月の見える部分を黄色で塗りつぶしたのか影の部分だけを黒にしたのか忘れましたがとにかく自分が見えたとおりに描いて提出しました。
提出の翌日に担任の先生に呼び出されました。

「他の宿題はまじめにやっているのにどうしてこれだけふざけて描いたの?」
月の宿題を私に見せて。
自分でも満月が長く続くのはおかしいと思いましたが、毎日見えたとおりに描きなさいといわれたのでそうしたのです。

「僕にはこう見えたのです!」
言われたとおりにしたのに怒られる理由はないと思って大声で答えました。
どこか欠けてるのではないかとは思っていましたが私の目では全体がぼけて満月にみえてしまうのです。
満月の状態からいきなり半月のようになるのはおかしいと自分でもわかっていましたが。
担任の先生はびっくりした顔をしてその後何も言いませんでした。
すぐに親に電話で私の目が相当悪いようだと連絡したようです。
週末に父が眼鏡屋に私を連れて行きそれから眼鏡をかけることになりました。
今の小学校には眼鏡の児童は多いようですが当時は私一人でした。
当時の眼鏡は壊れやすいのに高価なものでした。壊してはいけないと重い元気な弟二人のように外で遊ぶことが少なくなったと思います。
もともと病気で家にいることが多かったのに。
そんなわけで家で猫と遊んでいたわけですが大発見をしました。
 

子供のころから弱視でした

 written by 高橋 正視 投稿日時:2023/05/17(水) 21:29

小学校で最初の視力検査の時に一番上の大きな文字や図形が見えませんでした。
そうしたら少し前に出されて検査を受けたので皆に笑われてしまいました。
そこで次回からは検査盤の前を移動して検査に鵜買うときに一番上だけを記憶して検査をうけましたのでそれからは高校卒業まで左右の裸眼の視力は0.1でごまかしていたのです。
私は昭和20年生まれでまだ戦争が終わっていませんでした・。
戦後まもない小学校の教育では黒板の文字を必死にノートに写さなければならないとい
うわけではなく黒板の文字が良く見えなくても大丈夫でした。ちなみに私は背が高いほうなので座席は後ろのほう。
もちろん困ったこともありましたが。

3年生くらいのとき新宿御苑に写生に行ったときが一番いやなおもいでになりますね。
どこかの気色をスケッチしなければならなかったのですが、図工の先生は私の絵を見て幼稚園児のようなものではだめだということでなかなかOKがでません。
OKをもらった同級生が次々に公園内で遊んでいるのに私だけが描きつづけました。
大きな木はわかるけれど枝や葉の細かい様子はわからないのでどんなに工夫してもやはり幼稚園児が描いたものにしかなりません・
情けなくて涙がでてくると余計に景色がよくみえません。
図工の先生は「できなければ学校に帰るバスに乗せない」と言って同級生と一緒に遊んでいるし。
最後は私はあきらめて絵を描くことをやめて時間が過ぎるのをまっていました。
「絶対にバスに乗せてもらい学校に帰れるはずだと思うけれど、もし一人で残されたらいつまでもここに座っていよう。」

もちろん皆と一緒に学校に帰れましたよ。
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